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117)明治維新政権の後世へのメッセージ

 埼玉の浦和に所用があり行ってきた。
 埼玉と東京とは隣接しているが、あまり訪れることは無く久し振りに行った。
 東京の郊外を半孤を描いて走るJRの武蔵野線で浦和に行ったが、どこでJR線に乗り換えるのか、大変迷ってしまった。

 なにせ「浦和」という文字のつく駅名が多すぎる。
 列記すると、

     浦和(京浜東北線)
    北浦和(京浜東北線)
    南浦和(京浜東北線、武蔵野線)
    西浦和(武蔵野線)
    東浦和(武蔵野線)
    武蔵浦和(武蔵野線、埼京線)
    中浦和(埼京線)
である。

 「浦和」を中心にして東西南北のつく駅名があり、その他に「武蔵」・「中」のつく駅名がある。毎日利用している人は違いがわかるのであろうが、年に数回訪れるか訪れない人にとっては、駅名の違いなどわからず、その時は覚えても、すぐ忘れてしまう。

 駅名に多く利用される位であるから、浦和の都市は大きいことはわかる。しかし、だからといって、1つの市に7つも「浦和」という駅名をつけることもなかろう。
 この調子で行ければ、上浦和、下浦和、右浦和、左浦和、新浦和、古浦和、本浦和の名前をつけた駅名が出現するかもしれない。

 それ程、「浦和」にこだわっているにもかかわらず、浦和市と大宮市の合併では、あっさりと「浦和」を捨てて「さいたま市」という、これまた、発想のおそまつな合併市名にした。多分、埼玉県の県庁所在地は浦和にあり、「県庁所在地の地名が県の地名である」という考え方による考えがあり、多くの人の募集名の中から決めたのであろう。

 しかし、ここでちょっと考えてみて、欲しい。
 「埼玉県」という県名になったのは、どうしてなのか。

 「埼玉」の地名は、江戸時代の江戸に近い南部の埼玉郡(こおり)の郡名の地域の名称でしかなかった。幕末の頃に地域を代表する浦和や熊谷や川越などの都市の地名でもない。1つの郡(こおり)の地域の名称でしかなかったものを採用し、埼玉県の県名にしたのである。埼玉県は本来は地域を代表する都市であった浦和の名をとって「浦和県」になるべきであったのではなかろうか。

 「さいたま」は「さきたま」がなまって変化したものでないかといわれる。
 「さきたま」とは何かというと、1つの有力な説は、多摩の先、多摩の前にある地域を指す「先の多摩」の地域名称が「さきたま」と呼ばれるようになったという。
 万葉集には「佐吉多万」と地名がでてくるという。
 このことを考えると、「埼玉」という県名をつけた人は、相当の学識を持っていた人と推測できる。

 しかし、この県名のつけ方に疑問が生じる。
 奈良を代表の都市をもつ地域は奈良県に、熊本は熊本県にと、県の経済中心にある都市の名前が県の名前になった。高知は高知県、福井は福井県である。しかし、宮城は仙台県にはならなかった。茨城は水戸県にならなかった。これは何故か。

 ある小説にこんな文章がある。引用する。

 「明治維新を指導した人々は、維新政府樹立に反対した人々が多く住む地域に対して、その反対したという行為を後後の世まで子孫に知らせようと、陰湿で意地悪なことを考えた。
 その行為は、現在までその目的を達している。
 明治維新政府は、地方の行政体の県名はその地域を代表する都市名を地方行政体の県名とすることにしたが、その中で明治維新に楯突いた地域の行政体の県名は、その地域を代表する都市と異なる県名にすることにしてしまった。
 石川県は金沢県にならなかった。
 愛知県は名古屋県にならなかった。
 山梨県は甲府県にならなかった。
 群馬県は高崎県にも、前橋県にもならなかった。
 鹿児島県は鹿児島県になった。
 県名に明治維新の爪あとを今に残す。」(『潮への回帰』P61〜62)

 歴史学者は、この政策、名づけ親は誰であるのかを、当然研究し、わかっている。

 ある学者は、その後100余年県名を変えようという動きもなく、現在の都道府県制度を国民は受け入れているのであるから、それは良い制度であったということの証ではないかといっている。

 しかし、現在進行中の平成の市町村の大合併の後には、「次は都道府県制度の改革。これは21世紀の課題だ」と片山虎之助総務相は発言している。(日経 2003.6.22)
 政府は都道府県の合併を考えているのである。

 私の出身は岐阜県である。岐阜は斉藤道三、織田信長活躍の頃から地域の中心であった。明治維新に楯突かなかったので岐阜県になったのであろう。
 これが1つの郡の名をとって郡上県とか恵那県になっているとしたら、どういう感情を持っているのであろうか。
 さほど、県民意識というものを持っていない性格だから、あっさりと郡上県とか恵那県という県名を仕方がなかろうと受け入れているかもしれない。

 引用した文章は『潮への回帰』からで、著者は・・・。新風社という出版社から6年程前に発行されている。

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