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711) NHK『龍馬伝』・龍馬死す

 2010年のNHKテレビ日曜日の大河ドラマ『龍馬伝』は、2010年11月28日で終わった。

 龍馬は死んだ。
 慶応3年(1867年)11月15日の夜である。

 中岡慎太郎と共に京都の近江屋旅館で、数人の男に襲われて暗殺された。
 龍馬33歳である。若い。若すぎる。

 薩長同盟を成し遂げ、大政奉還を実行させ、徳川幕府の封建社会から、国民平等の民主主義の社会への扉を開けてくれた男である。

 龍馬が死んで1ヶ月半後の1868年には明治政府が出来、明治元年になるのである。

 惜しい男を亡くした。もったいない事である。暗殺者を私は憎む。
 私は龍馬を暗殺したのは新撰組とばかり思っていた。

 定説では幕府見回り組の仕業と言う様だが、私には未だ半信半疑である。

 徳川幕府最後の将軍である一橋慶喜は、薩長同盟を樹立させて争えば幕府を打ち負かしすることの出来る軍備力を持たせる事で幕府に暗黙の威嚇をし、土佐の山内容堂を動かして、大政奉還の策を考え、それこそが日本人同士が血を流さずに生き延びる唯一の方法であると進言してきた男が誰であるのか見抜いていた。

 その大政奉還を進言した坂本龍馬という男は、不戦主義の人間であると知っていたであろう。龍馬の進言を受け入れ大政奉還を実行した一橋慶喜も優れた人物である。

 龍馬を一番よく知っていたのは、幕府側では勝海舟であり、松平春獄であったから、恐らく彼らから一橋慶喜は龍馬の考えを聞いていたのではなかろうか。

 徳川(一橋)慶喜は、坂本龍馬を殺してはならぬという指令を幕閣に出していた。
 龍馬暗殺は幕府見回り組の仕業と言う事になると、徳川慶喜の命令はどうなったのだということになってくる。
 いかんせんその指示が下々までに行き渡っていなかったことになる。
 残念である。

 私が坂本龍馬を知ったのは、中学生の初め頃であったと思う。
 何で龍馬を知ったか思い出せない。本を読んで知ったのか。或いはませた友人がいて、その友人から龍馬という男は、素晴らしい男であると教えてもらったかも知れない。

 私の中学生の頃、三橋美智也が唄った『ああ新撰組』(作詞横井弘 作曲中野忠晴)の歌がはやっていた。

  加茂の河原に 千鳥が騒ぐ
  またも血の雨・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・
  新撰組は今日もゆく

 『ああ新撰組』の歌を歌いながらも、近藤勇、土方歳三、沖田総司は、坂本龍馬を殺してけしからんと思っていた。

 中学3年の修学旅行は京都であった。
 新京極というアーケードのある小売店舗ばかりがずらりと並ぶきらびやかな商店街に、田舎者の私は、そうした商店街を見るのは初めてでありびっくりした。

 そして近くに近江屋旅館があると聞き、その家の前まで行った。

 「ここが坂本龍馬が暗殺されたところか。
 この小路を新撰組の連中が、肩で風を切って歩き回っていたのか。」
 
と感慨深く思いながら、建物と周囲そして通りを見回したことを想い出す。

 『竜馬がゆく』を書いた司馬遼太郎は、龍馬の暗殺に対しては冷ややかである。

 司馬は、暗殺者について、「思慮と情熱の変形した政治的痴呆者」(『竜馬がゆく』 文藝春秋・文春文庫(八)P383) という。

 政治的痴呆者について書く必要性を見出すことは出来ないということであろう。
 
 7年程前、京都に行った時、京都に龍馬の墓があると聞いた。
 何故龍馬の墓が京都にあるのか不思議に思ったが、東山の霊山護国神社に墓があると聞き、そこを訪れた。坂の上に墓はあった。墓まで行くのに300円だったか、入場料を徴収されたのには驚いたが。

   龍馬の墓の前に佇み冥福を祈った。


  鑑定コラム705 「龍馬の裏書き」を熟視

  鑑定コラム978 「正平、鞆の浦を行く」

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