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978)正平、鞆の浦を行く

 火野正平の自転車のこころ旅は、広島に入る。

 鞆の浦の港に立ち寄った。

 正平が土蔵の建物を指し示し、

 「ここは龍馬に関係するところだょ。」

という。

 それを聞いて、私は、

 「なに、・・・・龍馬に関係するところだと?
 坂本龍馬とどう関係するのか?」

と思った。

 そして「いろは」の文字をみて、

 「ひょつとすると、いろは丸事件の港町なのか?
 瀬戸内海で坂本龍馬の海援隊の蒸気船いろは丸と、紀州藩の船の明光丸が衝突し、いろは丸は沈没してしまった。

 龍馬は、紀州藩の船が悪いと国際法のルールを持ち出して、紀州藩をやり込め、紀州藩から8万余両の莫大な損害賠償金をせしめたいろは丸事件があり、その交渉の舞台となったのは沈没した近くの港であったと記憶しているが、その交渉した港町は鞆の浦であったのか。火野正平は今そこに来ているのか。」

とNHK-BSプレミアムのテレビの映像を見ながら心の中でつぶやいた。

 龍馬暗殺犯は誰かという推理で、このいろは丸事件で龍馬に8万余両の大金を取られて、面目を潰された紀州藩士の人が犯人だと主張する人もいる。
 陸奥陽之助は、龍馬暗殺犯は紀州藩の藩士三浦休太郎と思い込み、海援隊の人々とともに紀州藩士三浦休太郎を襲撃している。いわゆる天満屋事件である。

 龍馬年表で云えば、いろは丸事件が起こった日時は、下記の通りである。

 1867年(慶応3年)4月23日 龍馬が乗っていたいろは丸160トンと明光丸887トンが、霧の深夜瀬戸内の海で衝突する。

 同年4月24日 いろは丸は、近くの港である鞆の港に、明光丸に曳航されるが、途中で沈没してしまう。

 いろは丸が衝突された直後、傾くいろは丸の乗組員は全員自力で衝突した明光丸に飛び乗る。

 龍馬は、明光丸に乗り移った直後、直ちに明光丸の航海日誌を差し押さえる。

 龍馬が航海に必要な国際公法を身につけたのは、英語の出来る長岡謙吉を傍に置き、長岡謙吉に国際公法を口頭で訳させ、それを耳から聞き頭の中にたたき込んで行ったのである。

 英国の議会制度についても、同じ手法で知識を増やしていった。

 龍馬は、1867年11月15日に京都近江屋で暗殺される。
 いろは丸事件から7ヶ月後に、龍馬はあの世に行ってしまった。
 33歳の若さである。
 甚だ残念である。

 司馬遼太郎は、『竜馬がゆく』(文春文庫 株式会社文藝春秋 2009年8月5日第21刷 以下同じ)の「いろは丸」の章(7巻P235〜294)でいろは丸事件について詳しく描いている。

 その章の書き出しは、下記の通りである。

 『竜馬の商法は、大いに盛っている。
 たとえば、丹後(京都府)の田辺藩とも取引が成立した。
 田辺藩は3万5千石の小さな藩で・・・・・・・・・。

   こんな小藩でも藩吏を長崎に派遣して、貿易で利を得たいとやっきになりはじめていたのは、やはり時勢だろう。
・・・・・・・・・・・ 』

 龍馬の海援隊は商売が拡大し、船が足らなくなってきた。
 しかし船を買う金は無い。

 龍馬はうまい方法を思いついた。

 伊予の大洲藩に160トンの蒸気船いろは丸を買えと持ちかける。
 大洲藩はいろは丸を購入する。

 しかし、大洲藩は蒸気船を操る技術を持ち合わせていないことから、いろは丸は海援隊が借り受けて、海援隊が商売に使うという手法である。

 船籍は伊予大洲藩、所属運営は海援隊と云うやり方である。

 現在の海運会社が採用している手法である。

 商船、タンカーの船籍は、リビアとかパナマ船籍で、所属運営は日本の上場している海運会社というごとく。

 つまりリースである。

 龍馬は、現在多くの業界で導入されているリースを海運で考え出したのである。

 船の衝突で、国際法による解決を主張し、実践したのも、坂本龍馬が初めてである。

 国際法による解決の当事者のやりとりについて、司馬遼太郎は、同書P260〜261で、次のごとく描く。

 『海難事故は事件現場のそばで解決するのが国際的常識である。

 「この近くの港といえば備後の鞆(現在、福山市に編入)だ。そこまで舵をまげられよ。」』

と龍馬がいう。

 紀州藩の高柳船長は、

 「藩命がある」

とか、

 「鞆になど寄っていられない」

とか云って明光丸を出航させようとする。

 また、乗船している藩の幹部が、

 「高柳、論議は船上でしろ。船を出せ。」

と命令する。

 この紀州藩の高柳船長の対応及び乗船していた紀州藩の幹部の横車に、龍馬は怒り出す。

 『竜馬は激怒した。いきなり剣のつかに手をかけ、
 「手前勝手なことばかり申されるな。
 万国公法というものがある。
 それを守らぬとあらば、この船上で諸君を撫で斬りにして私も切腹するつもりだ。
 その覚悟で返答されょ。」

と気色ばんだから、明光丸側もやむなく鞆へ船首をまげることになった。』

 紀州藩と龍馬は、鞆の浦で4日間交渉した。

 鞆の浦での話会いは決着がつかず、長崎で話会おうと云うことになった。

 龍馬は、海援隊の本社のある長崎に戻る途中下関に寄った。
 そこで桂小五郎に会い、いろは丸事件のいきさつを話し、紀州藩と海援隊とが戦争することになった場合、長州藩は協力してくれとお願いしている。

 桂小五郎は龍馬への武力協力を快諾している。
 龍馬は、最悪の場合は紀州藩と一戦を構える決意で損害賠償の交渉をしていた様だ。

 龍馬が鞆の浦で滞在した宿は、「桝屋」という回船問屋で、談判所は、越後町の魚屋由兵衛の家と司馬遼太郎は同書で記す。

 いろは丸事件で面目を失った紀州藩の明光丸の船長次席の岡本覚十郎は、その後長崎で龍馬暗殺を計るが、龍馬に瞬時に打ち倒されてしまったと司馬遼太郎は記述する。

 いろは丸は長崎を出て大阪に向かっていた。

 その船には海援隊の一員である紀州藩の浪人であった陸奥陽之助が乗り込んでいた。のちの陸奥宗光である。

 船中での龍馬と陸奥との間の会話を、『竜馬がゆく』のP250で司馬遼太郎は記述している。

 史実か司馬遼太郎の創作かどうか私には分からないが、会話部分を抜粋して転載する。
 龍馬の考え方が描かれていて、私が龍馬にひかれ、好きな個所である。

 龍馬が刀を船長室で磨いていると、そこに陸奥が入って来て、陸奥と龍馬の会話が始まる。
 以下である。

 『「ほう、ご殊勝なことで」
 「やがてこんなものを帯びずに歩く世が来るだろう」

 「そうでしょうか」
 「いまでもそうだが。武器というより、自分の象徴のようなものになっている。この両刀のおかげで無能なやつでもそこそこの仕事ができる。しかしいまに行かぬようになるぜ」

 「下駄屋を将軍にしたい、というのが坂本さんの御熱望ですからな」
 「そうすれば実力だけの世になる」

 「代々禄で食ってきた大名、旗本、諸侯の士が反対するでしょうな」
 「彼等はもう三百年その世禄で食ってきた。
 これ以上なおも食いつづけようとするのはおそるべき欲だ。
 それにしがみつこうとするやつには歴史の天罰がくだる」

 「しかし混乱するでしょうな」』

 余談であるが、陸奥宗光の次男は、古河家に養子に入った古河鉱業の2代目社長古河潤吉である。
 帝国議会で外務大臣であった陸奥は、田中正造から足尾銅山の渡瀬川鉱毒について問われている。

 火野正平は、私に坂本龍馬を久し振りに思い出させてくれた。


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