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520)岩村にて

 私事で岩村に行って来た。
 岩村とはどこにあるのかと言えば、岐阜県の南東部長野県境及び愛知県境に近い町である。

 平成の市町村の大合併前は、岐阜県恵那郡岩村町であった。大合併によって現在は恵那市に吸収されてしまった。

 岩村は冬の寒気が厳しく、この寒気を利用して冬の田んぼに日干し棚を作って、ところてんの素になる寒天の日干し製造が以前は行われていたが、現在は殆ど行われていない。
 
 岩村に行ったら、木曽の御嶽山が見えた。
 下記の写真である。雪を被った御嶽山である。


御嶽山

 私の故郷は、地図上では岩村より御嶽山に近いが、北方近くに山があって御嶽山を見る事が出来ない。

 雪の被っている御嶽山の中腹より上の山林400町歩(400万u)の評価を頼まれたが、今は雪に覆われた状態で現地に入ることは出来ないことから、依頼者と話し合い、雪の解けた4月以降に現地調査を願えないかとお願いしたところ、依頼者もそれはそうだと言い、了承して下さった。

 雪の解けた頃、現在写真で見える雪の被っている御嶽山の山林のどこかに評価のために行くことになる。

 遠くより、評価対象地が所在するであろう山を見るのも悪くない。

 私事とはいえ2009年2月の初旬、東京から岩村に行って来たのであり、少し岩村について記す。

 岩村は、岩村城のあった城下町である。
 女城主の町とも言われる。

 明治になって城は壊されてしまった。
 今思えば、もったいないことを日本人はしたと思われる。

 しかし、城破壊行為は、当時の人にとって当たり前のことと認識されていたのであろう。

 後になってもったいないと考える様になったのは、それだけの知識を他と比較することによって身に付けたのである。

 しかし、日本人の考え方の根本が全て変わったと言うことはあり得ず、今でも違った現象で、城破壊の行為と同じことをやっている可能性があるのでは無かろうか。

 それは私も含めて自身気付かないだけであり、平成の現在を生きている人達が当然と思ってやっていることが、後世になって愚かなことをやっていた、と言われるかもしれない。

 充分注意すべきことである。

 織田信長と武田信玄・武田勝頼による岩村城の凄まじい争奪戦が行われてきた。
 その凄まじい岩村城争奪戦の模様について、新田次郎が『武田勝頼』(講談社 昭和61年6月20日)の著書に描いている。

 武田の武将秋山信友が、織田側についている岩村城を攻撃するが、山城である岩村城は攻略出来なかった。そんな中、城主の遠山景任が死亡してしまった。
 未亡人となった妻ゆう(「修理」とも、「おつや」とも呼ばれる)が、女城主となって武田勢と戦う。

 秋山信友は策を考え、ゆうの婿に入ることで和睦して、岩村城を武田側に乗っ取ってしまった。

 未亡人ゆうは、織田信長の父信秀の妹であり、信長にとっては叔母にあたる。信長はこの行為に対して非常に怒る。これがゆうに悲劇を引き起こす。

 岩村城が武田側に陥るのは1572年11月である。
 翌年の1573年武田信玄は死亡する。
 「死亡後3年は自分の死を伏せておけ」という信玄の遺言があった。
 息子勝頼は、その遺言を守った。ここをヒントにして、黒沢明の『影武者』という映画が作られる。

 この映画『影武者』の制作・撮影指揮等には、黒沢明を敬愛する二人の巨匠監督フランシス・F・コッポラ(「ゴッドファーザー」・「地獄の黙示録」の監督)とジョージ・ルーカス(「スター・ウォーズ」の監督)が協力している。

 1575年5月、設楽ヶ原の戦い(長篠の戦い)で武田勝頼率いる武田軍は、織田・徳川連合軍に壊滅的な敗北を喫す。武田軍はこの戦いの敗北から、消滅への道を歩む。

 設楽ヶ原の戦い(長篠の戦い)の敗北の影響は、すぐに岩村城に及び、織田軍は岩村城攻撃にかかる。
 1575年11月岩村城は織田軍に奪われる。僅か3年の武田勢の岩村城占拠であった。

 秋山信友とその妻であり信長の叔母であるゆうは、岐阜につれて行かれるが、信長の命令で長良川河原で斬り殺される。

 この武田軍と織田軍との岩村城攻防については、前記新田次郎の『武田勝頼』のp377〜386、p405〜409に記述されている。
 興味のある方は読まれたい。

 同書p99で懐かしい地名が出てくる。
 織田信長は木曽攻めで馬籠峠まで行ったが、木曽勢の軍略をアドバイスする武田軍の真田昌幸の策略に引っかかり、敗走する信長の負け戦の状景を描いている処での信長への物見の報告である。

 『「馬籠峠を守る木曽軍はおよそ百名あまり」
 「木曽川沿いの間道には、ほとんど敵影なし」
 「妻籠には木曽の影は見えませぬ。妻籠から伊奈の駒場に通ずる清内路方面には敵の動きがございませぬ」
とつぎつぎと物見の報告が入ってきた。』

 上記文章の「木曽川沿いの間道」とは、苗木から坂下・田立を経て三留野に抜ける木曽川右岸沿いの狭い曲折する古道を指すのではなかろうかと思われる。
 この道は、我が故郷を通る古くからある道である。中仙道の間道と言われている古道である。

 織田信長の木曽の負け戦の経験は、その後の信長の戦いに多くを教えた様である。


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