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652)四漕艇部琵琶湖遭難昭和16年4月6日

 毎月1回「4」の日に、東京銀座7丁目にある「ライオン銀座7丁目店」6階ホールで、旧制四卒業生と金沢大学卒業生合同の『北の都会』(旧名『四会』)が開かれている。

 私は、大学の同窓生に参加を以前より誘われていたが、仕事が忙しいこともあって、参加を断っていた。

 しかし、自身考え方がどう変わったか分からないが、時間の許す限り会合に出てみようと、最近思うようになった。

 何故そうした気持ちになったのか、自身分からない。

 歳か。

 2010年4月は、4日が日曜日であった為、6日に会は開かれた。
 第685回の月例会である。

 1年に12回開かれるのであるから、685回ということは、

              685÷12=57年

57年続いていることになる。勿論旧制第四等学校の『四会』からの回数を入れての年数である。
 よくぞ57年間も続いているものと感嘆したくなる。

 『四会』から金沢大学卒業生が主体になる会への移行については、旧制第四等学校のOBの中には強い反対もあったと聞く。

 しかし、会が無くなるよりも、同じ金沢で学び、同じ校舎で勉強した若い世代の金沢大学卒業生が、会を引き継いでくれて、会が存続する方が良いではないのかという意見が多数を占め、旧制第四等学校の『四会』とその後身である金沢大学OB会とが一緒になって、『北の都会』の名称として、『四会』が存続することになった。

 会の運営は、実質的には、金沢大学卒業生が行うことになった様だ。
 旧制四の最後の卒業生も、現在80歳をとっくに過ぎており、会の運営を現実には体力的にはやって行けない事情もある。

 第685回の『北の都会』は、4月6日と云うこともあり、昭和16年4月6日琵琶湖で四漕艇部員と卒業生を含む11名が、漕艇練習中に比良おろしがつくる高波に艇がのみ込まれて遭難し、帰らぬ人となった哀悼の会であった。

 その琵琶湖遭難で無くなった故福富不二男氏の妹さん(香川百合子氏)を講師に招き、兄を想う話と中川淳子氏の琴の調べによる追悼であった。

 琵琶湖遭難で無くなった故福富不二男氏の妹さんの話は、兄である故福富不二男氏は、樺太から金沢の四に入学した。

 四を卒業し京都大学への進学も決まっており、京都大学入学前までの間に、四漕艇部の合宿に先輩として参加していたのである。

 父は樺太におり、兄は四卒業後は父のいる樺太には戻らず、京都大学の入学式に行く前に、東京の母の実家に帰ってくると云うので、妹さんと母は、四を卒業した兄の帰りを、東京の母の実家で待っていた。

 大学の入学式が近づくのにも係わらず、いつまでたっても、兄は東京の母の実家に帰ってこなかった。
 来たのは、兄が琵琶湖で遭難死したという悲報であった。

 「何故・・・・・」
が家族一同の思いであった。

 樺太にいた父は、一人息子の琵琶湖遭難死に驚き、日本に急ぎ帰って来たが、落胆は激しく、一人息子が学生時代を過ごした金沢に居を移し、息子の姿を追い求める人生を過ごしたと妹さんは語る。
 
 兄を琵琶湖で亡くした妹さんの話を聞きながら、妹さん家族の無念さを思いやると、涙が出てしまった。

 これからという若い人が、琵琶湖遭難で、人生を終えてしまった。
 残念である。

 東京で四漕艇部の琵琶湖遭難の哀悼会が開かれると、人づてに聞かれたのか、滋賀草津にお住いの琴奏者の中川淳子氏が、会に駆けつけて下さった。
 
 中川淳子氏は、一昨年(2008年)の「源氏物語千年紀」の記念行事で、紫式部が源氏物語を書いたと云われる石山寺の「国宝如意輪観音菩薩像」の御前で、箏曲「紫式部」(作詞:鷲尾光遍大僧正 作曲:萩原正吟)を演奏された人である。

 その様な著名な琴箏曲奏者が、わざわざ東京の会にまで来て頂き、琴の調べで哀悼して下さるとは、人の心の美しさを改めて知った。クリックすると写真が拡大されます。


北の都会685回



 中川淳子氏の「琴による四漕艇部の琵琶湖遭難の哀悼の調べ」は、「四漕艇班遭難追悼歌」に始まり、石山寺で奏じられた箏曲「紫式部」、そして最後は、続後撰和歌集に収録されている平兼盛が詠んだ和歌に、宮城道雄が曲をつけた「比良」であった。

      見わたせば 比良の高根に 雪消えて 
      若菜つむべく 野はなりにけり

 最後の箏曲「比良」は素晴らしい琴の音であった。
 宮城道雄がつくったこれが琴の音の響きかと、琴の調べに心打たれた。

 中川淳子氏は、「われは海の子さすらいの 旅にしあればしみじみと・・・・・」の「琵琶湖周航の歌」(作詞:小口太郎、作曲:吉田千秋)も奏じてくださった。

 隣に座っていた年配の四OBが、

 「奏じられている「琵琶湖周航の歌」は三のボート部の歌で、四生遭難を歌った歌は、良く似たメロディの「琵琶湖哀歌」という曲だょ。東海林太郎と小笠原美津子がうたって、かなりヒットした。」

と教えて下さった。

 私は、四生琵琶湖遭難を歌材にした歌謡曲があり、ヒットしたと云うことなど全く知らなかった。

 翌日、図書館に行き東海林太郎と小笠原美津子がうたう「琵琶湖哀歌」(作詞:奥野椰子夫 作編曲:菊池博)の入っているCDを借りてきて、聴いてみた。

      遠くかすむは彦根城 波に暮れゆく竹生島
      三井の晩鐘・・・・・・・

 3番目の歌詞は、まさに遭難鎮魂詞である。

      比良の白雪溶けるとも 風まだ寒き志賀の浦
      オールをそろえてさらばぞと しぶきに消えし若人よ

 「琵琶湖哀歌」は、旧制第三高等学校漕艇部の部歌であった「琵琶湖周航の歌」のパクリの歌であるとささやかれている。

 しかしパクリの歌の「琵琶湖哀歌」が、ヒットしたことにより再度「琵琶湖周航の歌」のメロデイに、それが影響を与えていると識者・研究者は評している。

 そもそも「琵琶湖周航の歌」の曲そのものが、イギリスの「ひつじぐさ」のメロディに歌詞をつけたものという。
 それ故、「琵琶湖哀歌」が「琵琶湖周航の歌」のパクリでけしからんということは、言えないという反論もあるようである。

 会の最後は、琵琶湖遭難後の昭和16年につくられた「四漕艇班遭難追悼歌」(作詞:石上晃・満島俊次 作曲:加藤二郎)を歌って哀悼の会は終わった。

 同遭難追悼歌の歌詞は、当時の四生が友を悼み作詞したものである。
 1番と4番を記す。

     1.思い出づる調べも哀し
       春深く水藻漂ふ志賀のうみ
       かの日風立ち雲たれて 
       呼び応うこだまのみ
       たそがれに流れゆきぬ
     2.・・・・・・・
     3.・・・・・・・
     4.沖の島に春の陽てりて
       ほのぼのと霞み渡れり
       岸近くさまよいゆきて砂にぎり
       砂握りしめ夕なみに
       いまはなき友を偲びぬ
          5.・・・・・・

 私は、この歌を知らなかった。

 隣に立つ90歳近くの先輩達は、歌集も見ず、声朗朗と「四漕艇班遭難追悼歌」を歌う。
 私は、歌集に書かれている歌詞を目で追いながら、隣で朗朗と歌う先輩達の声に引きつられて、小さい声で後追いして歌った。

 とても私はそれらの先輩にはかなわない。敬服する。

 昭和16年琵琶湖遭難後に、同年5月10日四講堂で行われた合同慰霊式を写した写真とボート部の雄姿の写真が、

   『金沢大学写真で見る50年』
    (著者金沢大学創立50周年記念事業後援会写真集編集委員会)
      第一章多彩な前身の時代 
       T節 四の伝統

の15頁の写真1-17、1-19にあります。
 著作権者の金沢大学からホームページ写真転載許可が取れましたので、下記に当該2つの写真を載せます。
 最初の写真は、写真1-17で、六との琵琶湖での対抗ボートレースの写真です。クリックすると写真が拡大されます。


四ボートレース


 次の写真は、写真1-19で、琵琶湖遭難後に、昭和16年5月10日四講堂で行われた合同慰霊式を写した写真です。祭壇には亡くなられた11人の遺影が飾られている。クリックすると写真が拡大されます。


琵琶湖遭難慰霊式


 2010年4月6日の『北の都会』月例会に参加された人の誰かも、ひょつとして上記写真1-19の中の参列者の一人として写っているかもしれない。貴重な写真である。

 また上記合同慰霊式の写真で頭を垂れている四生の中には、その数年後に始まった学徒出陣によって、戦場で命を落とされた人もおられるのではなかろうか。
 その人達には、哀悼の意を捧げたい。

 『金沢大学写真で見る50年』は、下記アドレスで見ることが出来ます。四の校舎、四学生の生活、哲学者の西田幾太郎教授等の写真が数多くあります。(開くまで少し時間がかかります)

  http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/3348/16/ph-1-1-p6-42.pdf


 四琵琶湖遭難について綴る伏見工業高校ボート部のホームページ「伏工漕艇部の溜まり場」がある。
 そのホームページに、「琵琶湖哀歌・四高桜」の記事がある。
 下記アドレスである。訪れて見て下さい。伏工漕艇部頑張れとエールを送りたい。

http://plaza.rakuten.co.jp/fushimirc/14004


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