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849)桂小五郎が中津川に来ていた

 2012年の正月休みに一人の友人から電話が入った。

 「今、桂小五郎の本を読んでいるが、その中に桂小五郎が、中津川に身を隠していたと書いてある。
 田原は、たしか中津川か、その周辺の出身ではなかったか。
 知っているのか。」

 「平成の大合併で、現在は中津川市になっているが、出身は旧中津川ではない。
 桂小五郎が、中津川で身を隠していたと?
 幾松とか?」

 「いや違う。
 幾松と一緒ではない。
 桂小五郎は、中津川宿で身を隠していた。
 すき焼きが食べたくなったが、鍋が無くて、鍋を近くの家から借りたらしい。
 その貸した鍋があるらしい。
 桂小五郎がすき焼きを食べた鍋を持っている家が中津川にあるようだ。
 田原知っているか。」

 「イヤ 、私は知らない。
 桂小五郎が中津川に隠れていたことすら知らない。
 江戸と京、長州を何度も往復しているから、いつも東海道ばかりでなく、たまには山の中の中仙道を使ったかも知れないな。
 それで中津川宿に泊まったことはあるだろう。
 しかし、桂小五郎が食べたすき焼き鍋と言うことになると、何だか、桂小五郎が身近に感じて来る。
 その鍋も相当の価値があるのではないか。
 一度見てみたいょ。」

と、私は知人に返事した。

 私は坂本龍馬については、年表等を調べて、少しは知っているが、桂小五郎については、坂本龍馬との関係についてのみしか知識が無い。
 坂本龍馬との関係以外については、桂小五郎は、後に木戸孝允の名前に成り、立派な政治家だと言う程度の知識しか持っていない。

 中津川に何をしに桂小五郎は来ていたのか。
 少し興味があったので、ネットで調べて見た。

 桂小五郎は中津川で大変重要な会談を藩主としていた。
 長州藩の歩む方向を決める会談を中津川で行っていた。

 その会談を「中津川会談」という。

 藩主毛利慶親(敬親とも書く)が、江戸より京に行くのを、桂小五郎は中津川の料亭「やけ山」で待ち受けた。これを「中津川で隠れていた」と言う様だ。

 この時、桂小五郎に随伴していた一人の中に、伊藤俊輔即ち後に初代首相になる伊藤博文もいた。

 桂小五郎は、藩主毛利慶親に謁見して、長州のそれまでの公武合体の藩政の方向を、尊皇攘夷の方向に変えさせた会談であった。

 長州にとっても、その後の日本にとっても大変重要な中津川会談である。

 会談の行われた日時は、文久2年6月21日(1862年7月17日)である。
 桂小五郎は1833年に生まれているから、桂小五郎29歳の時である。

 文久2年と言う年は、重要な年である。
 それは、文久2年3月24日(1862年4月22日)、坂本龍馬が土佐藩を脱藩した年であるから。
 そして、文久2年4月8日(1862年5月6日)、吉田東洋が暗殺されたのである。


 桂小五郎の「中津川会談」の前後の行動を記す。

 文久2年5月12日(1862年6月9日) 桂小五郎、江戸より京に向かう。  

 文久2年6月6日(1862年7月2日)  長州藩主毛利慶親、江戸より京に向かう。

 文久2年6月21日(1862年7月17日) 「中津川会談」

 文久2年6月29日(1862年7月25日) 桂小五郎、京に入る。

 文久2年7月3日(1862年7月29日)  長州藩主毛利慶親、京に入る。

 文久2年7月6日(1862年8月1日)   京長州藩邸で御前会議、公武合体を破棄して尊皇攘夷を決定。

 (年表は、『幕末年譜(文久2年)』http://space.geocities.jp/kamito_ken/Calendar1862.html に主としてよる)

 上記桂小五郎の行動日程を見ていると、政の根回しとはこの様にしてやるのだということを、桂小五郎が教えてくれているように私には思える。


 以前に皇居の宮内庁三の丸尚蔵館で薩長同盟密約書の龍馬の裏書を見たが、その時何故皇室にその書類があるのかいぶかったが、桂小五郎が尊皇攘夷の思想を持っていれば、それもある程度頷ける。

 それ以上に「薩長を同盟させ、大政奉還の考えを示し、その道筋をつくり、新しい日本という国を作る途中で、龍馬は暗殺されてしまった。坂本龍馬こそが現在の明治政府を作った人であることを皇室に認めさせる為に、皇室に龍馬の裏書きのある「薩長同盟書」を寄贈したのであろうか」(鑑定コラム705)と言うことが皇室に龍馬の裏書きがある理由ではなかろうかと私は推測する。


  鑑定コラム80)
「中津川市周辺町村の合併」

  鑑定コラム705)「「龍馬の裏書き」を熟視」

  鑑定コラム978)「正平、鞆の浦を行く」

  鑑定コラム1680)「2017年夏熊谷にて」


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